晴れ。
他人の10倍時間がかかる。パッと喋られないから、今日、他人にお願いしたり、伝えなければならないことを想定して、前もって独作文をしなければならない。だからとても時間がかかる。ホントに大したことをやってないのに、何だかセカセカしながら生活している。
学校の仲間・ブラジル人やトルコ人、中国人だと思っていたベトナム人女性なんかはとってもエエ加減な、『おいおい』と注意したくなるくらい、ホンマにエエ加減なドイツ語を自由に使いこなしている。そして実に楽しそうだ。ボクはそういうことが、まだ出来ない。前もって準備する。真面目である。真面目のどこが悪いんじゃ!
今日もベルリーナ・アンサンブルBERLINER ENSEMBLEにて”DIE JUDEN(翻訳するなら、ユダヤの民、かな)”を観劇。今日は3階席。5ユーロ。上演が進むにつれて、暖かい空気が上昇してきて、とても暑い客席だった。
1749年制作の作品。ボクなりにちょっと分かったような気になる。物語の主人公はユダヤ人で上流階級の旅人で、滞在先の貴族とその召使い、主人公の屈折した内面を語る”もう一人の自分”が登場し、それらの会話劇で構成されている。おそらく、貴族やその召使いは日常的に無意識下でユダヤ人に対する差別的な発言を行っている。ドイツ語文法の接続法2式、丁寧表現・婉曲話法を多用してたから、何となく分かった。主人公は自分がユダヤ人であることを、ずっと言いそびれていて、最後に吐露する。”Ich bin ein Jude.(ボクはユダヤ人なんだ)”。で、周囲の人は、いきなりそっぽを向く。平田オリザさんの『ソウル市民』を想起させる作品であった。
と、ここまで、全てボクのエエ加減な解釈によるものである。
で、ここでボクは怖いなぁと、ふと思った。おいおい、ボクはこの作品を全て自分の知っている知識の範囲内だけで解釈しようとしているではないか。当たり前のことなんだが、知らないことを結びつけて人間は物事を理解しない。自分の知っていること、何らかの知識や経験をつなぎ合わせることによって、事象を理解する。つまり、常に世界に対して、何らかの形で『気持ち』を開き、新しいことを知ろうと心がけてないと、自分の世界や理解はとても偏狭なもので終わってしまう。
『おー、こわ』。ふと、そう思った。

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