本作の原作者ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749~1832)は、言わずと知れたドイツの大文豪である。フランクフルトの裕福な家庭に生まれ、ヴァイマール公国の官僚を務める努めるいっぽうで、数多くの文学作品を著した。彼の興味の対象は法学や文学にとどまらず、自然科学者としても、光学、植物学、地学、解剖学などの分野ですぐれた成果を遺している。幅広い教養と社交的な性格もあいまって、多くの著名人と親交をもち、生涯恋の噂が絶えなかった。

何事もそつなくこなす天才型オールラウンダーといったところだが、それを可能にしたのは、単なる能力の高さだけではなく、ゲーテのもつ幅広い視野と、既存の価値観にとらわれない自由な精神によるところが大きいだろう。例えば、実家はプロテスタントを信仰していたが、青年時代、恋人の影響により種々の宗教哲学に触れたことがきっかけで、汎神論(すべての事象は神性を持つ、あるいは神そのものであるとする考え方)的な立場を取るようになった。また、一国の宰相まで務め努めながら、国粋主義ともおよそ無縁であった。学生時代からヨーロッパ諸国(当時のドイツはまだひとつの統一された国ではなく、諸公国がゆるやかに結びついている状態だったので、現在でいう隣の州に移るだけでも国外旅行と同じであった)を遍歴し、優れた語学力を活かして各国の様々な階層の人と交流した彼にとって、国や民族や流派などの小さな枠組みへのこだわりは、きわめて下らないしがらみだったのである。こうした態度が、後に「世界市民(Weltwohner)」「世界文学(Weltliteratur)」といったキーワードに象徴される、世界的な視点にもとづく思考に繋がっていった。

ちなみに恋の相手も、貧しい街娘から貴族の夫人まで、年上のおねえさまから犯罪的年の差少女まで、見さかいナシであった(……ってこれは蛇足か)。とにかく恋愛ではかなり常識はずれな面もあったが、かといってゲーテは、「自由」をふりかざして放埒の限りを尽くすようなアナーキーなタイプでは決してなかった。彼の自由な精神は、「調和」を是とするものであって、フランス革命の招いた無秩序状態などとは相容れなかった。狭量な考えを捨て、互いに協調し合えば、異なるものがありのままの姿で、ひとつの秩序のもとに平和に共存していける。性懲りもなく戦争を繰り返している現代の我々には、現実逃避の理想主義にすら思える思想だが、彼の生き方にも作品にも、それを言い切ってしまえる度胸とエネルギーと説得力が満ちている。この精神こそ、ゲーテが時代も地域もこえて愛される所以であろう。

【文:小野紗也香[『IPHIGENIE イフィゲーニエ』ドラマトゥルギー担当]】

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