『Kibou_concert@signal.jp』

「しなければならない」で終わる物語。
もっと面白い作品が創れるようになりたいと思い、ドイツに留学した。もっと言葉が理解出来るようになるため、語学学校に通わなければならなかった。学校の授業について行くために、宿題をしなければならなかった。演劇留学で来たのだから、足繁く劇場に通わなければならなかった。食事も摂らなければならない。洗濯、入浴もしなければ。そして睡眠も。何かに追われるような日々、それがドイツに滞在して半年くらい経った時のボクだった。ある日、お世話になっていたグリプス劇場の事務所で、パーティーに誘われた。ボクはやらなくてはならないことがたくさんあり、お断りした。すると、事務員のハネロアさんがボクの頬を二つの手のひらで包み込んで、そっと話しかけた。「タナカさん、人間には本来そんなにやらなくてはならないことなんて、多くはないのよ。人間がやらなくてはいけないことは、生きなければならないことと、死ななければならないことよ。そして、あなたは何がしたいの?」と。涙が零れた。張り詰めていた気持ちがほどけていく感覚。一年という限られた時間の中で、出来る限り多くのことを吸収したい、そんな思いがいつの間にか焦りになっていた。少し風景を見渡せるようになった。少し食事が美味しくなった。少し酒の量が増え、多くの友人が出来た。残り半年の生活は今振り返っても、演劇の勉強をしたというより、「生きた!」という印象が強い。

▼日本での自殺者は98年以降、9年連続の07年まで3万人を超えている。06年の『警視庁の統計』によると、自殺者の職業別内訳は48.6%が無職者である。年齢別に見ると、自殺者総数の30.8%が60歳以上。原因・動機の内訳では健康問題が32.4%と一番大きな割合を占めている。そこには年齢を重ね、経済的困窮から、健康に問題があっても、治療を受けることもままならない高齢者の生活が垣間見える。そして不安になる、自分自身に。働かざる者食うべからず? 『失業率と自殺率には強い相関関係が認められる』のだ。ボクだって働けないような怪我をすれば終わりである。この統計のみならず、おおよそ自殺に関するデータには、無職者が無職に至るまでにどのような仕事に経てきたかは記されていない。それは記さなくても自明であるからなのか。あるいは、現在その仕事に従事している者たちへ知られることを拒んでいるのか。それとも、調べる者にとっては興味のない現象なのか。

▼失業しないように、ボクたちはどれだけの努力を必要としているのだろう。99年以降、三度行われた労働者派遣法の規制緩和。そして、横行する偽装請負や多重請負。近年、ささやかな生活を営むボクたちの周囲は劇的に変化し、以前にも増して、搾取されている。その一方で、ボクたちは銀行を少なくとも47兆円かけて救済し、彼らを再び肯定的に機能させてもいる。釈然としないながらも、やはり世間を渡っていくためには、それが正しいことであり、それが秩序であるかのように思おうとする。もしくは考えないでおこうとする。というより労働環境が過酷になることで、立ち止まって考えることを許さない状況を招き、ボクたちは思考をする前に、ささやかな生活を守るために奔走する。働かなければ、行き着く先は周知の通りである。しかし本当にボクたちは、こうした社会の中で、抑鬱状態を強いられながら、静かに衰弱し、自らの命を壊していくしかないのだろうか。

▼極度に秩序に従い、我慢を重ね、しかも、秩序とやらの維持に加担さえしている、ちっぽけで「物言わぬボクたち」の生活、満たされない期待や、小さな夢をこの作品で再現し、検証することによって、ボクは「たった一つの命に物を言わせる」ことのない生活を手に入れたいと思う。そして出来ることならば、「しなければならない」で終わるこの物語の中に、ボクたちは「したい」で終わる生活へのヒントを見出したい。それがボクの今の希望である。