曇り時々雨。
Ich bin auch ein Berliner. 『俺も一ベルリンの民なのだ。』
ちょっと宮澤賢治さんの『春と修羅』の一節、「俺も一人の修羅なのだ」っぽく言ってみた。Ich bin auch ein Berliner.(イッヒ ビン アオホ アイン ベルリーナ)う~ん、良い響きだ。
18時からGRIPS Theaterの芝居、『MERODY RING(メロディ・リング)』を観劇。12歳以上が対象の作品。Volker Ludwigのおっさんの“人に対する眼差し・優しさ”に惚れる作品であった。
物語の大筋を少しすると…。主人公の少女(メロディ)は、カフェで知り合った男の子に手品をして貰う。手品の内容は「コインが手の中から消える」という、よくあるヤツだ。お金を持っていなかった少女は、それでももう一度その手品を見たくて、自分の指輪(リング)を男の子に渡す。勿論、指輪も消える。と、そこに警察が来た。男の子は何か事情があるらしく、急いで逃げていく。指輪を持ったまま。少女は男の子を探しに町をあちこち尋ねて回る。そして、行き着いた先にはトルコ人やアジア人が居た。貧民街である。男の子もそこに住む者であった。彼らはベルリンでは望まれない訪問者として不遇な生活を送っている。少女は彼らとの交流を通して、他者を理解し、成長していく。…といった具合である。『Linie 1』に似た構成ではあるが、本作では男の子の鬱屈した精神も同時に描いていた。
作品中、少女は男の子と二度の再会をするが、二度目は物語の最終シーン、場所は警察署の中である。“Ich bin ein Berliner!(俺もベルリンの人間や)”と警官に抱えられながら、叫ぶ男の子が印象的だった。“ドイツの人間だ”とは言わず、“ベルリンの人間や”と言わせたVolker Ludwigのおっさん。大したもんである。
国費留学をしているボクが言うのもどうかと思いつつ、やっぱり言ってしまうのだが、『国ではなくベルリンという地域に焦点を当てるVolkerのおっさんに拍手である』。
そうなのだ、ボクたち一般庶民にとっては生活範囲なんてのは所詮は「点」なのである。「面」の概念はない。支配するエライ人には「面」は必要な概念なのかもしれないけど。
数学的に言えば「点」には面積はないし、「面」には勿論面積がある。この「面積」の有るか無いかの違いは大きい。ドイツ史を眺め、思うのは、この「面」への意識が高まった時に戦争は起きている、ということである。「領域」争いである。
Volker Ludwig氏は、国という単位ではなく、地域、つまりもっと小さな単位、より「点」に近い単位のコトバを紡ごうとしている。明るい未来を切望するが故に、厳しく現在を見つめるVolker Ludwig。
ボクは彼に今日、「地域」と言うコトバの持つ魅力を教わった。Volkerのおっちゃん、ありがとう! エエ芝居やったで。帰り道、ボクも“Ich bin auch ein Berliner.”って、つぶやいたわ。

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