昨年夏、集団的自衛権が閣議決定された日、「わたしの弟は わたしの好きな男は 戦場で死ぬだろう」と詩に書いた。「大げさすぎると嘲笑う奴らもいるだろう/でも タガが外れたらあっという間さ」。今年に入って日本人人質殺害事件が起きると、現実はにわかに詩に近づいた。政府は待ってましたとばかりに戦いを叫び、この国を戦争可能にするための準備を着々と進めている。「テロ」という空虚な言葉がまたたく間に真実を覆い隠し、あらゆる欺瞞を正当化していく様子を見て、もう一編詩を書いた。「いまのうちに 自分のからだを撫でておこう」「まもなく ゆがみ ちぎれ くずおれて/それが何だったかもわからなくなる/このからだ」。次にこの詩が現実になるのもそう遠くはなさそうだ。
本当に戦う理由と覚悟があるのなら、命をかけて殺し合えばいい。ただこれからの戦争が、人間の尊厳を悪から守るための闘いだという幻想は、棄てた方がいいだろう。存在するのは、憎しみ合ったすえに敵味方なく潰される肉塊と、後ろで仲良く金を数える肉屋たちだけだ。振り上げた拳は敵ではなく、かならずわたしたちの子らを打つ。だからわたしは、見え透いた嘘で国民を騙し、戦争に送り込もうとする連中のやり口が赦せない。自分を被害者としか思わず、思考を止めて、本当にただの「肉」になり果てようとしているわたしたち自身にもうんざりする。

ただこの怒りはまだ未熟なものだ。反射的かつ衝動的な嫌悪で、まったく精錬されていない。映画『ノー・マンズ・ランド』のダニス・ダノヴィチ監督は、ユーモアゆえに戦争へのきわめて痛烈な批判をなしえた処女作の会見で、“怒りを胸の奥にしまって耐えながらじっと考え、それが鎮まったときようやく、真に意義のある行動を起こせる” と語った。もう何年も前に観たので正確な引用ではないが、作品によって証明された彼の言葉は、今でも私を律してくれる。怒りは一度解体されなければならない。その源泉を、正当性を、向ける矛先を、腑分けしてよく見つめなければならない。ものごとは「深みへともぐり(untergehen)」、姿を変えて再びあらわれた時にこそ、本当の力をもつのだ。

とはいえ、手がかりもなく彷徨うのは心細いものである。だから今、手元に『ファッツァー』があることは幸いだ。作品の冒頭、無人の戦場に一本だけ残る半分になった木のそばで、ファッツァーはこう語る。「俺はもう戦争なんかしない。ここに来て、良かった。俺は、この世界で三分間じっくり考えることの出来る場所にいる」。わたしにとっては“芸術”が、その「半分になった木」なのかもしれない。わたしは『ファッツァー』に向き合いながら、自分の怒りについて考えることができる。

だが、あまり悠長にもしていられない。じっさい、わたしたちに残された時間は「三分間」しかない。「あそこに木がまだ半分残っているが、」いくさの火が迫ってくれば「あれだって、なくなってしまわなければならない(なくなってしまうにちがいない)」。だから「何もかもなくなって」しまうまえに、この敗北の物語から学びたいのだ。わたしの怒りがとるべき、新しい抵抗の姿を。

ドラマトゥルク 小野紗也香

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